第1章 民主政治の基本原理

6.法の支配

2022年5月 有馬秀次 監修

(1)人の支配と法の支配

(ひとのしはいとほうのしはい)

人の支配と法の支配

国や社会集団を支配する形態に、「人の支配」と「法の支配」があります。
【人の支配】
人の支配とは、権力者(絶対君主、独裁者など)が法に拘束されることなく、恣意的(自分勝手なさま)に政治を行うことです。
権力者は、思いのままに法をつくり、国民の自由や権利を奪い、拘束することができます。権力者が自ら法に従う必要はありません。
人の支配は、絶対王政の時代に見られた、典型的な支配の体制です。
【法の支配】
法の支配とは、すべての国家権力が法に基づいて行使されることです。
国家の活動や国民の自由や権利は、すべて法に拘束されます。国を治める者も、法に従わなければなりません。
法の支配によって、国民の基本的人権の尊重が確保できるようになります。
法の支配は、近代国家に見られる統治の体制です。

(2)法の支配(イギリス)

(ほうのしはい)

法の支配(イギリス)

イギリスの憲法を構成する法律に、マグナ・カルタ(1215年)、権利の請願(1628年)、権利の章典(1689年)があります。これをイギリスの3大法典といいます。これにより、イギリスにおける法の支配が確立しました。
【マグナ・カルタ(大憲章)】
マグナ・カルタは、1215年にイギリスで成立した法です。大憲章(だいけんしょう)ともいいます。当時、イギリス国王ジョンは王権の強大化をはかり、貴族たちの反発を買っていました。そのため、ジョン王の失政をきっかけに、貴族と都市が反発し、その要求を記した文書「マグナ・カルタ(大憲章)」に署名させました。
マグナ・カルタは、63条からなる法です。国王の徴税権の制限(議会の同意なしに課税などを行わない)、貴族の特権、都市の自由、教会の自由、不当な逮捕の禁止などの要求をジョン王が承認しました。
【権利の請願】
権利の請願(けんりのせいがん)は、1628年にイギリス議会が、イギリス国王チャールズ1世に提出した請願書です。正式には、「本国会に召集された僧俗の貴族および庶民により、国王陛下に捧呈され、これに対して陛下が国会全体に勅答を給うた請願」といいます。11条からなります。先のイギリス国王であった父ジェームズ1世と、子のチャールズ1世は、ともに王権神授説(王権は神から授けられたもので、国王の命令は神聖で絶対的なもの)を掲げ、専制政治を行いました。さらに、イギリス国教会の信仰を強制し、ピューリタンを迫害しました。そのため、イギリス議会は、人民の権利の確認を求めて、1628年にチャールズ1世に請願書を提出しました。これが権利の請願です。しかし、イギリス議会は、チャールズ1世に解散を命じられ、10年間にわたって開催されませんでした。
【権利の章典】
権利の章典(けんりのしょうてん)は、1689年にイギリス国王ウィリアム3世メアリー2世が発布した法です。正式には、「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」といいます。権利宣言を成文化したもので、13条からなります。権利の章典は、イギリスの名誉革命において制定された法です。それでは、簡単にイギリス革命を見ていきましょう。

(3)イギリス革命

(いぎりすかくめい)

イギリス革命

イギリス革命とは、17世紀にイギリスで起こった、ピューリタン革命(清教徒革命)と名誉革命のことです。
※ピューリタン革命だけを指す場合もあります。
【ピューリタン革命(清教徒革命)】
ピューリタン革命とは、1640年から1660年に起こったイギリスの市民革命のことです。清教徒革命ともいいます。
◆国王と議会の対立
スコットランドで起きた反乱の戦費が必要になったチャールズ1世(在位1625-1649)は、1640年に議会を招集しました。しかし、議会は国王の専制を批判して反発しました。1641年にイギリス議会は、保守派からなる「王党派」とピューリタンを中心とする「議会派」に分裂し、対立を深めました。
◆国王と議会派の衝突
1642年にチャールズ1世と議会派が衝突し、戦闘が始まりました。序盤は王党派が有利でしたが、議会派のオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell、1599-1658)が鉄騎隊を指揮して巻き返し、1645年に勝利をおさめました。1649年にチャールズ1世を処刑し、共和制を樹立しました。共和制とは、国王ではなく、国民に選ばれた代表者によって統治される政治形態のことです。
◆クロムウェルの独裁
クロムウェルは、1653年に護国卿(ごごくきょう)という最高官職の地位につくと、議会を解散し、独裁を行いました。1658年にクロムウェルが死亡すると、その息子が護国卿を後継しましたが、翌年に辞任し、共和制は崩壊しました。
◆王政復古
1660年、ステュアート朝のチャールズ2世(在位1660-1685)が即位し、王政が復古しました。チャールズ2世は処刑されたチャールズ1世の子で、ピューリタン革命によりフランスに亡命していました。チャールズ2世は、王に即位するにあたって、絶対王政へ復帰しないと約束する「ブレダの宣言」を発出していました。しかし、チャールズ2世も、次の王となった弟のジェームズ2世(在位1685-1688)も、絶対王政の復活やカトリックの復興を画策し、議会と対立しました。
【名誉革命】
名誉革命とは、1688年から1689年に起こったイギリスの市民革命のことです。1688年、国王ジェームズ2世が亡命し、かわってジェームズ2世の娘メアリー2世(在位1689-1694)とその夫でオランダ総督のウィリアム3世(在位1689-1702、チャールズ1世の孫)が王位に着きました。これは、ほぼ無血革命だったと言われています。1689年には、王権の制限や議会の権限を定めた「権利の章典(けんりのしょうてん)」を発布し、国王は「君臨すれども統治せず」の立憲政治へ移行しました。

(4)法の支配の提唱者

(ほうのしはいのていしょうしゃ)

法の支配の提唱者

法の支配における重要人物は、ブラクトンコーク(クック)、ダイシーの3人です。
【ブラクトン】
ヘンリー・ド・ブラクトン(Henry de Bracton、不明-1268)は、イギリスの聖職者、裁判官です。主著は、『イングランドの法と慣習法について』です。国王裁判官の実際の判例を多数引用しています。
ブラクトンは、「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある。なぜなら、法が王を作るからである。」 と述べて、法の支配を主張しました。
【コーク(クック)】
エドワード=コーク(Edward Coke、1552-1634)は、イギリスの法律家です。コークではなく、クックと呼ぶ場合もあります。
権利の請願を起草(原案をつくること)したのは、コークです。
権利の請願の基本的理念となったのは、コモン・ローの精神です。コモン・ローとは、イギリスの中世初期において、一般的慣習法(国王裁判所が運用した法)という意味で用いられた用語です。
権利の請願によって、法の支配は確立しました。
【ダイシー】
アルバート・ヴェン・ダイシー(Albert Venn Dicey、1835‐1922)は、イギリスの法学者です。ダイシーは、主著『憲法研究序説』(1885)において、議会主権と法の支配がイギリスの二大公法原理であることを主張し、法の支配を定式化しました。

(5)法治主義

(ほうちしゅぎ)

法治主義

法治主義とは、政治は議会で成立した法に基づいて行わなければならない、という原則のことです。
この原則に基づいて統治を行う国家を法治国家といいます。
法治主義は、形式的法治主義実質的法治主義に分けられます。
【形式的法治主義】
形式的法治主義とは、議会で成立した法であれば、その法の内容までは問わない、という主義のことです。
法の中身よりも、法の形式や手続きなどを重視するため、国民の自由や権利を軽視する危険性があります。
いわゆる「悪法も法なり」という考え方で、19世紀のドイツで発展しました。
一方、実質的法治主義とは、議会で成立する法は、その法の内容までも問う、という主義のことです。
国民の人権を軽視するような法は、議会で法として認められません。
イギリスで確立した法の支配と、ほぼ同義の考え方です。

(6)確認問題

問題1
すべての国家権力が法に基づいて行使されることを(①人の支配、②法の支配)という。

②法の支配

問題2
イギリスの3大法典とは、(①マグナ・カルタ、②コモン・ロー)、権利の請願、権利の章典である。

①マグナ・カルタ

問題3
ピューリタン革命(清教徒革命)と名誉革命のことを(①イギリス革命、②フランス革命)という。

①イギリス革命

問題4
権利の請願を起草したのは、(①ダイシー、②コーク)である。

②コーク

問題5
政治は議会で成立した法に基づいて行う、という原則を(①法治主義、②資本主義)という。

①法治主義

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